漱石山房の由来

漱石山房について馬場下の実家に程い住宅地の一角の旧牛込区早稲田南町七番地にある
明治40年9月漱石が教職を辞し、東京朝日新聞社専属作家として入社後、没するまでの円熟した10年間、執筆活動を過ごした旧居で「漱石山房」と称された。
漱石が移り住んだ当時 不衛生であったので永住するつもりは無く、生涯月35円の借家として住んだという。
漱石の死後、遺族が朝日新聞社からの退職金の一部で家を買い取り、大正7年長女の結婚とあいまって、木曜会の会合に使用した客間と書斎を母屋を分離させる改修を行った。
これは当初書斎を記念館として保存を考えたものであったという。
その後、震災では大きな損傷を受けなかったものの昭和20年5月25日東京大空襲により早稲田一帯と共に焼失した。
戦後土地は都が譲り受けた後、新宿区に移管され現在は、敷地の一部が区民住宅と区立漱石公園とし現在に至る。
漱石山房での執筆作品として晩年の代表作であるは『三四郎』、『彼岸過迄』、『それから』、『門』、『心』などが上げられると共に、その後の日本文学界に大きな影響を与えた漱石門弟(漱石山脈)による「木曜会」のサロンとしても利用された。

概要 場所 構造物 

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